2月26日
家でフライを揚げてみる、上達の基本は一日に一度らしい。
今日は詩も書いて、油絵をも描いた。
久しぶりに油絵を描いた。
像よりも色を付け加えていくことに面白みがある。
色を重ねていった先に何があるのかはわからないが、ながめるとロールシャッハテストのように何者かに見えてくる。
この世界も粒子にまで分解するとわけがわからない。
そこに境界線を認識することで意味が現れる。
さらに進めていけばそこに何か立ち上がるのかもしれない。
立ち上がらないのかもしれない。
それでいい試す。
次の一筆のささやき。それは詩にも動きにも似ている。
詩人ブロツキーのこういう言葉を見つけた。
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人が詩を書き始めるのには、様々な理由があるでしょう。恋人の心を勝ち得るため。自分を取り巻く現実に対する──それが風景であれ、国家であれ──自分の態度を表現するため。ある瞬間の自分の精神状態を描き出すため。地上に自分の足跡を残すため。[中略]しかし、人間がどのような理由によってペンをとろう とも、そのペンの下から生み出されるものが読者にどんな印象を与えようとも、またその読者がどれほど多くとも少なくとも、詩を書こうとする行為からただちに生ずる結果は、言語と直に接触しているという感覚です。いや、より正確に言えばそれは、言語に対して、そしてその言語で述べられ、書かれ、実現されたことのすべてに対して、ただちに従属関係に陥っていくという感覚でしょう。
この従属関係は絶対的、専制的なものですが、これはまた、人間を解放してくれるものでもあります。なぜならば、言語は書き手よりも常に年上であるにもかかわらず、いまだに膨大な遠心力を持っているからです。この遠心力は、言語の持つ時間的潜在能力、つまり前方に横たわるすべての時間によって与えられるものですが、この潜在能力の大きさを決めるのは、その言語を話す民族の数量的な 構成というよりは──確かにそれもあるのですが──むしろ、その言語で書かれている詩の質なのです。古代ギリシャ・ローマの詩人たちを、あるいはダンテを 思い起こせば充分でしょう。今日、例えば、ロシア語や英語で書かれているもの は、これらの言語が次の千年間にわたって存続することを保証しています。繰り 返しますが、詩人とは言語が存在していくための手段なのです。あるいは、偉大 な詩人オーデンが言ったように、詩人とは言語が生きるために必要な糧なのでしょう。この文章を書いている私もいずれ死ぬでしょうし、これを読んでいる皆さんもいなくなるでしょう。しかし、この文章を私が書くために使っている言語、そしてこれを皆さんが読むために使っている言語は残ります。それは単に、言語のほうが人間よりも長生きするからという訳ではなくて、言語のほうが変化によりよく適応する能力を持っているためでもあります。
しかし、詩を書く者が詩を書くのは、死後の名声を期待してのことではありません。確かに、詩人はしばしば、自分の死がたとえわずかでも自分の死後も生き延びることを願うものですが。詩を書く者が詩を書くのは、言語が次の行をこっそり耳打ちしたり、あるいは書き取ってしまえと命ずるからです。詩を書き始めるとき、詩人は普通、それがどう終わるか知りません。そして時には、書き上げられたものを見て非常に驚くことになります。というのも、しばしば自分の予想よりもいい出来ばえになり、しばしば自分の期待よりも遠くに思考が行ってしまうからです。これこそまさに、言語の未来がその現在に介入してくる瞬間に他なりません。
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詩人は言語が生き延びるためにある。
絵描きは色が生き延びるためにある