3月21日
詩歌記念日。
BUoYカフェに滞在して、詩を読み返したり、訪ねてきた人と話したりしていた。
好きな詩集を読み返していたら、ほんとに胸が一杯になった。
バータイム、大きな黒板を前にして湧き上がっては消えて行く言葉の中で、
何度も何度も私の中で響いて来る言葉を黒板に書いていった。
一行を記してはまた同じように湧き上がって来る言葉を待った。黒板の前に3時間くらいウロウロして16行の、ひとつのわたし的に詩と呼べるというものが出来た。 そしてそれを朗読した。 書いている様子やその朗読を楽しんでくれた人があった。
歌人の人が返歌を黒板に書いて、詩や歌について日付の変わる頃まで語り、そして黒板に書かれた詩と歌を消した。歌人の人が「なんか最高ですね」って言った。
お客さん少なくて、カフェの皆様にはすみませんでしたが、じっくり言葉と向き合い創作できて贅沢でした。いつかお客さんパンパンななかでも同じことしてみたい。
今日(22日)モメラス稽古の帰り道、渋谷にある岡本太郎の明日の神話を見て、いつかあのくらい大きなところにも詩を書いてみたいと思った。5千行くらい書かないとだな。叙事詩を書こうと思う。
ロシアのノーベル賞詩人のブロツキーが言ってました。「詩人が言葉を必要とするのではない、言葉が生き残るために詩人を必要とするのだ」と。私が詩人ならいつか必要とされる日も来るでしょう。
舞台に俳優として立つようになって、特にモメラス の基礎稽古を通じて、私というものの中で生成(あるいは通過)する言葉と、記す実体としての私との関係性というものがなんとなく掴めてきた気がする。出て来た言葉が面白いか面白くないかは、そこではまず抜きに、というのもきっと大事なこと。
うん、とりあえず大きい黒板欲しい。 と、贅沢な時間。 そんでそこにたまにでも詩神がいてくれたら。
しかし、まぁ青い鳥のメーテルリンク を調べてるせいか詩のタッチがずいぶん変わって来た。 こういうのも今しか書けないんだろうなと思うから書けるときに書けるだけ書いておきたい。
消したのだから、消える前の詩を写真に載せないというのも思ったが、
わざわざこここのブログにまで来た人に見せないのも不親切な気がするので載せることにする。